転勤や就職など、人の動きがピークになる春の頃は、
私の勤める小さな不動産事務所にも、やはりそれなりに、
多くのお客様が来店をされるようになります。
そのため、毎年その季節になると一人か二人、アルバイトの方が
入ってこられるのでした。
この春のアルバイトさんは、高校を卒業してからずっと就職をせず、
フリーター生活をしているという二十歳の女の子で、
どういうわけか、とても私を気に入って下さったようでした。
事務所の中で一番年齢が近い同姓、という馴染みやすさもあったのでしょう。
彼女はおりふしに、
ご自身のプライベートなお話を聞かせて下さいました。
彼女が就職も進学もしなかったのは、
高校二年生の頃からお付き合いをしていた男の子のためでした。
同い年の彼は、愛知県の大企業に就職が決まりました。
二人の育った、熊本県と福岡県の境にある小さな町では、
高卒の男子を受け入れる企業など、ないのです。
生産台数が世界一という自動車メーカーの工場に採用が決まったとき、
両親や教師たちは、
まだ十八歳の少年がひとりきり、遠い町で暮らさねばならないことより、
一部上場企業で働くことのできる、
きっと豊かで平穏な一生を約束された彼の未来を、
手放しで喜んだのでした。
彼が故郷を出て、聞いたこともない名の町の独身寮で暮らすことになったと知り、
彼女は進学をすることをやめました。
「ほんとはですね、看護師になりたくて。
専門学校に行くはずだったんだけど、でも学校入っちゃうと
バイトもできないし休みもないし、会いにいけないでしょ」
そうして不定期のアルバイトをしてお金を貯め、
月に一度か二度、新幹線で数時間かかる彼の元へ通う生活を選んだ。
「名古屋って都会なんだけど、やっぱり九州のほうがいいかなあ」
食べ物とか味が濃くて、でも味噌カツは美味しかった。
彼と訪ねた名古屋の町での出来事を、彼女はよく、楽しげに話していました。
やっぱり九州のほうがいい、と口では言うけれど、
二年を過ぎて彼が仕事に慣れ、生活にも余裕ができる来年の春には、
家を出て、彼の住む町にゆく。そう、約束をした。
その日まであと何ヶ月こんな暮らしを、あと何度、こうして
新幹線に揺られて彼の元へ行き、
週末の僅かな時間を過ごし、日曜の深夜の電車にまた独り乗る、そんなことを
繰り返せばいい。
そうして彼女は指を折りながら、約束の日を待っているようでした。
数日前の午後、事務所のドアを押して、
見覚えのある顔が入ってきました。
「おひさしぶりです!あのですね、安いのでいいんだけど、
ワンルームありませんかあ」
あら・・・と口ごもり、尋ねることをためらっている私に、彼女は
春の頃、きみはいつも元気だねえ、と男子社員からも可愛がられていた
笑顔を作りました。
「彼と別れちゃったんですよお。それで地元は働くとこないし、
こっちに出てきて、仕事探そうと思って」
なぜ別れたのか、理由は聞きませんでした。ただ、
仮申し込みの書類にサインをしながら、顔を伏せ、独り言のように、
ぼそぼそとつぶやいた。
三年も付き合って、お互いの両親も紹介しあったのに。
あと半年のガマン、のはずだったのに。
こんなことになるとか、考えもしなかった。
社会保障費の負担もなく、低コストで雇い入れることができるという理由で、
企業は臨時雇用の割合を増やしていて、
政治に携わる人は、それを変えなければならない、という。
けれど時折、女は政治家や経済学者、という人々の想像もつかない理由で、
社会の仕組みから外れることを、選ぶ。
ただ、彼に会うために、新幹線の切符のために働き、
旅費が貯まればそのアルバイトをやめ、帰ってくれば
飛び石を渡るように、渡り鳥のようにまた、次の仕事を探して情報誌のページを繰る。
切符をあがなうために流行の洋服も友人との食事も唇を噛んで諦め、
看護師になるはずだった未来もためらわず捨て、
ただ愛知と九州を往復し続け、彼女の
三年間は過ぎた。
女は時折、そうして自身を、あっさりと男に委ねる。
男に寄り添うことで、夢とか、希望とか、そんなあやふやな何ものかを
叶えようとする。
そのふがいなくて切なくて、よるべなくて打算的で情けなくて、けれど
そうできる、求めていた未来も何もかも男のために捨ててしまえる、強さも、
女、なのだろうと思います。
彼女がリストから選んだのは、築十二年のワンルームでした。
駅から十五分、管理費込みで48,000円は、昨今では割安といえる。
「どうもありがとう。またきますねー。こんど、差し入れもってきます!」
下見担当の男性社員に促されて立ち上がり、彼女は背を向け、
ガラス扉の前で振り返り、また、あの笑顔を作った。
別れる、と決めた夜、彼女は泣いただろうか。
彼の元を、
彼の住む町を時速三百キロで走り去る新幹線のシートに体を埋め、
窓の外を飛ぶように過ぎる夜更けの街の灯りを、彼女は泣かずに、見ていたと、私は
思うのです。
部屋を案内したスタッフの話では、検討をしてみる、とのお返事で、
市街へ送ると、そのままどこかへ歩き去ったそうです。
その後今日まで、彼女からの連絡はありません。
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